Home / 恋愛 / 月を持たない娘は、黒き森で牙を研ぐ / 第2話 誰も追ってこなかった

Share

第2話 誰も追ってこなかった

Author: なつめ
last update Petsa ng paglalathala: 2026-07-27 08:12:05

 祝宴の太鼓が三度鳴るより早く、追放命令は読み上げられた。

 血の付いた銀首輪《月環》は、まだ大広間の石床に落ちたままだった。

 その傍らへ、月神殿の従僕が白木の書見台を運んでくる。上には、銀嶺狼群《ルーメル》の紋章を刻んだ羊皮紙が置かれていた。広げられた紙は端まで平らで、たった今用意されたものには見えない。黒い封蝋もすでに乾き、狼の横顔が深く鮮明に押されている。

 リュシエナは血の滲む首元を手で押さえながら、ゆっくり顔を上げた。

 月祠長オルディスは彼女を見なかった。乳白色の石を嵌めた杖を傍らへ立て、祝詞を読む時と変わらぬ厳かな声で告げる。

「リュシエナ・フェルディス。汝は新たなルナの地位を脅かし、群れの調和を乱す恐れがある。よって、アルファの名において、今夜限りで銀嶺狼群から追放する」

 広間を満たしていた歓声が、奇妙な静けさへ変わった。

 誰かが驚いて杯を置く。銀器と卓が触れ合う小さな音が、ひどく遠くまで響いた。

 リュシエナは最初、言葉の意味を掴めなかった。月環を外されても、薬草や備蓄を管理する役目くらいは残されると思っていた。

 だが、彼女へ残される隅は、初めからどこにもなかった。

「……追放、ですか」

 掠れた声で尋ねる。

 オルディスの指先が羊皮紙の上を滑った。

「月が天頂へ昇るまでに領地を出よ。その後も境界内に留まった場合は、群れへ敵意を持つ侵入者と見なし、処分する」

 処分。人の命を奪うという意味を、紙の上だけで清潔にした言葉だった。高窓の月が頂へ届くまで、二刻も残されていない。

「せめて、朝まで――」

 言いかけた声を、ローディクが遮った。

「必要ない」

 彼は壇上でミレシアの腰へ手を回したまま、冷ややかにリュシエナを見下ろしていた。

「お前がここにいれば、新しいルナへ余計な噂が立つ。今夜のうちに出ていけ」

 ミレシアが新しい月環へ指を重ねる。

「お姉様がここにいれば、おつらいでしょうし……離れた方が、きっとお互いのためになります」

 健気に庇う声だった。リュシエナは妹の首にある銀輪を見た。四年かけても、自分の居場所にはならなかったものを。

「異議を申し立てることはできますか」

 広間の空気が張り詰めた。父ガルディオの眉間に皺が刻まれ、ラヴィナは膝の上で扇を握り締める。

 オルディスだけは表情を変えない。

「アルファの継承と群れの安寧に関わる緊急命令だ。審理は必要とされぬ」

 リュシエナの目は、再び羊皮紙へ向かった。

 右下のローディクの署名には、十分に乾いた砂の跡が残っている。儀式の最中に書かれた文書ではない。

 拒絶の結果として追放が決まったのではなかった。

 彼女が何を言おうと、月環を外された直後にこの紙が開かれることは、前から決められていたのだ。

「そうですか」

 それ以上は言わなかった。言葉を尽くしても、聞く者はいない。

 立ち上がろうとすると、力の入らない膝が軋んだ。石床へ手をつき、どうにか身体を起こす。灰色の礼装の裾へ小さな血の滴が落ちた。

 誰も手を貸さなかった。

 リュシエナは床に残された古い月環へ目を向けた。

 手を伸ばすより先に、月神殿の従僕が火箸で銀輪を挟み、黒い布を張った箱へ収めた。

 蓋が閉じる寸前、月環の内側に浮いた黒い染みが見えた。

 次の瞬間には隠される。

「出口まで送れ」

 ローディクが命じた。

 広間の両側から二人の番兵が進み出る。腰の剣が革の鞘へ触れ、乾いた音を立てた。

 リュシエナが扉へ向かうと、楽師たちは目を伏せた。客たちは触れられることを避けるように道を空ける。

 背後では、ローディクが杯を掲げていた。

「皆、騒がせた。祝いを続けてくれ」

 ためらいがちな拍手が起こり、扉が閉じきる前に弦楽器が鳴った。

 彼女の追放など、宴の短い中断にすぎなかった。

 外廊下の冷気が、むき出しの首の傷へ刺さる。リュシエナは片手で襟を寄せた。番兵たちは歩調を緩めない。磨かれた長靴の足音が、彼女の薄い靴音を挟んで規則正しく響く。

 城館の外へ出ると、雪の匂いがした。冷たい空気は痛いほど澄み、それでも広間にいるより息がしやすかった。

 フェルディス家の屋敷までは、歩いて四半刻ほどだった。

 いつもなら家の馬車が待つ場所に、今夜は何もない。番兵の一人が顎で道を示す。

「行け」

「家へ戻ることは許されているのですか」

「月が上がりきるまでだ。荷をまとめたら、北門へ来い」

 なぜ北門なのかと尋ねかけ、やめた。

 南門は街道へ通じている。冬でも人の往来があり、夜を越せる宿場もある。北には森と険しい山道しかない。そのさらに先は、長く敵対してきた黒曜狼国《ヴァルグラッド》の領域だった。

 番兵は屋敷まで同行しなかった。逃げる場所などないと知っているのだ。

 祝祭の明かりが連なる通りを、リュシエナはひとりで歩いた。酒場から笑い声が漏れ、子どもたちが新たなアルファを讃える歌を歌っている。誰も彼女を追放者だとは知らない。

 フェルディス家の門は開いていた。

 玄関前の荷車には、薬草の記録や亡き母の本を収めた木箱が積まれている。屋敷の廊下には、慌ただしい足音が行き交っていた。

 リュシエナが階段を上がると、二階の自室は扉を大きく開け放たれていた。

 部屋の中は、半分ほど空になっている。

 寝台の覆いは剥がされ、衣装棚は開いたままだった。衣服はミレシアの部屋へ運ぶものと、使用人へ下げ渡すものに分けられている。本棚には日焼け跡だけが残り、母の刺繍も消えていた。

「お嬢様」

 年長の侍女が、畳みかけていた衣を胸へ抱いたまま固まる。

 別の侍女が素早く目を向ける。もう彼女をそう呼んではならないのだろう。年長の侍女は視線を床へ落とした。

「ラヴィナ様のご命令です。こちらの品は、すべてミレシア様がお使いになります」

「すべてですか」

「はい」

 華やかな衣も飾りも要らない。ただ、今着ている礼装では、丘を一つ越える前に凍えてしまう。

「旅に必要な外套だけ、いただけますか」

 声を荒らげたわけではない。それでも侍女は、責められたように肩を縮めた。

「奥様に叱られますので」

「古い物で構いません」

「申し訳ございません」

 謝る言葉とは裏腹に、その手はリュシエナの冬着を抱え直している。

 机の引き出しからは、薬草の配合や冬の備蓄量を記した帳面まで消えていた。

「私の記録は、どこへ?」

「財務長様がお預かりになりました」

 リュシエナは空の引き出しへ触れた。後ろで侍女たちが息を潜めている。けれど涙は出なかった。ここまで用意されていたのなら、今さら何に驚けばよいのかも分からない。

「もう結構です」

 そう告げて部屋を出る。

 廊下の角を曲がったところで、細い腕に袖を引かれた。

「リュシエナ様」

 エナラだった。

 栗色の髪を乱し、目を赤くしている。周囲を確かめてリュシエナを物置へ引き入れると、震える手で厚手の灰色の外套を差し出した。裾は擦れていたが、内側の毛皮はまだ柔らかい。

「お母様の……」

「奥の衣装箱に隠されていました。これはミレシア様には似合わないから、処分するようにと言われて」

 エナラが外套を肩へ掛ける。古い乾燥花の匂いは、雪の日に抱き寄せられた母の胸元と同じだった。リュシエナは頬を伝った一滴を、すぐに指で拭う。

「ありがとう」

「これも」

 エナラは砕き根や止血用の白葉を入れた小さな薬草袋も押しつけた。

「食べ物は持ち出せませんでした。厨房も見張られていて……ごめんなさい」

「謝らないで。十分です」

「北へは行かないでください」

 エナラの指が外套の袖を強く掴む。

「黒曜狼国の森があります。黒狼は、境界へ入った者を生かして帰さないと聞きます。西の山道なら、遠回りでも中立領へ――」

「南の門は、もう閉じられているのでしょう?」

 エナラの声が止まった。

 暗がりの中で、瞳が揺れる。

「西の山道にも、番兵が増やされている。違いますか」

 返事はなかった。リュシエナは、掴まれた袖へ手を重ねる。

「今朝、奥様が北門の番兵へ命じているのを聞いただけです。何をなさるのかまでは、本当に」

 今朝。

 拒絶の宣言よりも前だった。

 胸に残っていた最後の疑いが形を失う。答えを知らないまま、エナラの手をそっと外した。

 廊下の向こうで誰かがエナラの名を呼ぶ。彼女は肩を跳ねさせ、涙を拭った。

 リュシエナは外套の前を合わせる。

「私を見送ってはいけないわ。ここに戻って」

「お名前を呼ぶことまで、奪わせません」

 エナラは泣きながら、まっすぐ彼女を見た。

「リュシエナ様。どうか、生きてください」

 その言葉だけを受け取り、物置を出た。

 階段を下りると、玄関広間に父が立っていた。

 ガルディオは黒い外套へ着替え、二人の家令と北門の番兵を従えている。

 別れを惜しむためではない。

 娘が確実に去るのを見届けるためだった。

「その外套は」

 父の目が母の遺品へ留まる。

「処分される物だと聞きました」

 ガルディオは何か言いかけたが、取り上げろとは命じなかった。亡き妻の刺繍から視線を逸らし、冷えた声を落とす。

「門を出た後、フェルディス家の名を二度と使うな」

 リュシエナは黙って父を見た。

「お前がどこで何をしようと勝手だ。だが追放先で問題を起こし、家名を口にすれば、ミレシアの立場へ傷がつく。あの子は今夜からルナとなるのだ」

「私が何をしたのですか」

「存在しているだけで、新しいルナと比較する者が出る。お前を哀れむ者がミレシアを責めるかもしれない。それが群れの亀裂になる」

「だから、私は消えるべきだと」

「お前一人が耐えれば、すべて丸く収まる。昔からそうしてきただろう」

 その言葉が、リュシエナの二十年を言い表していた。妹が泣けば譲り、家の評判に関わると言われれば黙った。耐え続ければ、いつか家族として認められると思っていた。

 けれど彼らが覚えたのは感謝ではない。

 リュシエナは耐えるものだという習慣だけだった。

「……申し訳ありません」

 いつもの言葉が、舌の上まで出かかった。

 それを静かに呑み込む。

 父の目を見た。

 薬草袋を握る指が震えている。それでも、目は逸らさなかった。

「では、今日まで育てていただいた恩も、今夜でお返しします」

 ガルディオの眉が動く。

「何だと」

「私が耐えることで返してきたものが、まだ残っていたのなら、今夜ですべてお返しします」

 声は穏やかだった。

 初めて父へ逆らったという実感はなかった。ただ、もう謝る理由が見つからなかった。

 リュシエナは一礼し、父の横を通り過ぎる。

 ガルディオの指が動いたが、その手は外套の脇で拳を作っただけだった。

「恩知らずめ」

 背後から落ちた言葉にも、足を止めなかった。

 玄関を出る。

 引き止める声は、最後まで聞こえなかった。

 北門の前には四人の番兵が待っていた。

 城壁の松明は吹雪に煽られ、炎が細く横へ流れている。鉄鋲を打った門の向こうには、月明かりを吸い込む雪原が広がっていた。

 番兵の一人が手を差し出す。

「家門の品を置け」

 リュシエナが差し出した財布は、中の銀貨ごと奪われた。

 腰の短剣も外された。刃こぼれした古い品で、薬草の根を切るために使っていたものだった。

 続いて、礼装の胸へ縫いつけられた家門の徽章まで引きちぎられる。留め針が布を裂き、胸元に長い傷を残した。

 番兵は薬草袋の中身を確かめ、粗末な草だけだと鼻を鳴らして返した。

 門脇の記録簿では、リュシエナの名の上へ赤い線が引かれた。二十年間の証が、一本の線で消される。

「出ろ」

 門が軋みながら開く。

 氷の粒を含んだ風が吹き込み、外套の裾を激しく打った。

 足元には、祝宴のために選んだ薄い礼装靴しかなかった。

 それでもリュシエナは、境界を示す石を越えた。

 背後で鎖が引かれる音がする。

 重い門は、彼女が振り返るより早く閉ざされた。

 鉄と木が噛み合う轟音が、夜の雪原へ響き渡る。

 直後、城壁の向こうから音楽が聞こえた。

 笛と太鼓、いくつもの笑い声。ローディクとミレシアの新たな門出を祝う旋律だった。

 リュシエナは母の外套を胸元へ寄せ、歩き始めた。

 薄い靴はたちまち雪を吸い、冷たさが爪先へ染み込む。丘へ続く道には自分の足跡しかない。風が強まるたび、その跡さえ輪郭を失っていく。

 膝が震えても、立ち止まらなかった。

 丘の頂へ着いた時、月はほとんど天頂にあった。

 眼下に銀嶺の集落が見える。

 家々の窓は金色に灯り、中央の城館からは白銀の旗が翻っていた。二十年間、世界のすべてだと思っていた場所だった。

 リュシエナは一度だけ振り返った。

 門から丘までは、急げば四半刻もかからない。

 誰かが、考え直すかもしれない。

 父が追放はやりすぎだったと気づくかもしれない。ローディクが四年間のうちの一夜くらいを思い出すかもしれない。薬を届けた兵士や、配給を守った老人や、熱を下げた子どもの家族が、せめてこの吹雪の中へ毛布を持ってくるかもしれない。

 エナラではなく。

 彼女だけは、追ってくれば罰を受ける。

 それ以外の、誰かが。

 リュシエナは母の外套の中で両手を握り、白い道を見つめ続けた。

 風が髪をさらい、首の傷へ雪を吹きつける。

 祝宴の音楽が一曲終わった。

 次の曲が始まる。

 門は開かない。

 雪の道に、人影は現れなかった。

 やがてリュシエナは前を向いた。

 南へ続く道には、番兵の松明が列を作っている。西の山道にも狼の影が見えた。

 残されているのは、北だけだった。

 黒い森へ続く、誰も通らない道。

 最初の一歩を踏み出した時、閉ざされた門の内側から狼の遠吠えが響いた。

 一頭ではない。

 低い声が一つ。それへ重なるように、左右から二つ。

 リュシエナの足が止まる。

 子どもの頃から、何度も聞いた合図だった。

 祝福を捧げる遠吠えではない。

 獲物を追う時の合図だった。

Patuloy na basahin ang aklat na ito nang libre
I-scan ang code upang i-download ang App

Pinakabagong kabanata

  • 月を持たない娘は、黒き森で牙を研ぐ   第22話 王が命じなかったこと

    黒曜城へ戻った時には夜が深くなっていた。城門の松明が風に煽られ、黒い石壁へ揺れる影を落としている。国境へ銀嶺狼群の兵が集まり始めたという報告はすでに届いており、廊下を行き交う兵士たちの足音には普段にはない張り詰めた速さがあった。その騒ぎの中で、ヴァルゼインは自分の傷について何も言わなかった。リュシエナが気づいたのは、城内へ入ってからだった。黒い上衣の脇腹へ、乾いた血とは異なる新しい赤が広がっている。「待ってください」ヴァルゼインが振り向く。「何だ」「傷が開いています」「この程度なら――」「その言葉は聞きません」思ったより強い声が出た。自分でも驚いた。周囲にいた兵士たちも一瞬こちらを見る。ヴァルゼインは何も言わず、暗い金の瞳だけを細めた。「……ネルーヴァのところへ行ってください」「今は負傷者を診ている」「だからといって、放っておいていい理由にはなりません」「誰が治療する」リュシエナは口を閉じた。薬草と簡単な処置ならできる。銀嶺でルナ候補として学ばされた知識の中には、戦傷の手当ても含まれていた。「私がします」言ってから、胸が強く鳴った。相手は黒狼王。それ以前に。運命の番だと言われた男。肌へ触れることになる。獣魂がどう反応するか分からない。けれど、傷を放置する方が嫌だった。「……簡単な処置ならできます」ヴァルゼインは数秒黙った後、頷いた。彼の私室へ入るのは初めてだった。思っていたより質素で、寝台と机、武器掛け、大きな暖炉しかない。豪華な装飾も、王の権威を誇示する品もなかった。ヴァルゼインが上衣を脱ぐ。布が擦れる音が妙に大きく聞こえた。その下の肌に、赤黒い傷が走っている。断崖へ身体を打ちつけた傷だけではない。脇腹へ、小さな銀の破片が深く刺さっていた。リュシエナの息が止まる。「これ……」「岩に仕込まれていたらしい」「分かっていたのですか」「戻る途中でな」「なぜ言わなかったのです」思わず問い詰めるような声になる。ヴァルゼインは椅子へ腰を下ろした。「歩けたからだ」「歩ければ傷ではないのですか」「そうは言っていない」「同じです」言いながら、胸の奥が妙に熱くなる。腹が立っていた。誰に対してなのかも分からない。傷を仕込んだ者。黙っていたヴァルゼイン。そして、誰かが自分を救う

  • 月を持たない娘は、黒き森で牙を研ぐ   第21話 燃やされた黒霜花

    焦げた黒霜花からは、翌朝になっても煤の匂いが消えなかった。リュシエナは集会所の卓上に置いた一本を指先で持ち上げ、焼けた茎の根元を確かめた。黒霜花は寒冷地の岩場に根を張り、雪の下で冬を越す強い植物である。花と葉は失われても、球根さえ残っていれば春を待たずに再び芽を伸ばす。それだけが救いだった。「地上だけなら、まだ間に合います」地図を広げながら告げると、カルネアが眉間へ深い皺を刻んだ。猟師の証言では、群生地は村から北東へ半日ほど登った断崖にある。夏でも足を滑らせれば命を落とす場所で、この吹雪の中では雪崩の危険まで加わる。「却下だ」即答だった。「天候が戻るまで待つ」「いつ戻りますか」「それが分かれば苦労しない」「三日かもしれません。十日かもしれません」「だからといって死にに行く理由にはならない」カルネアの声には苛立ちがあった。それが自分を心配してのものだと、今のリュシエナには少しだけ分かる。以前なら命令へ従っただろう。迷惑をかけたくない。反対されたくない。そう考えて口を閉ざした。だが卓上には、毒入りの薬が流れた経路を記した紙が置かれている。「他の村にも月毒が入っている可能性があります」リュシエナは黒霜花を置いた。「患者が出てからでは遅いのです。待っている間に患者が出れば、解毒薬がありません」「お前自身にもまだ毒が残っている」「だからこそ必要です」カルネアが何かを言い返そうとした時、入口の近くから低い声が落ちた。「行くつもりか」ヴァルゼインだった。リュシエナは彼を見る。暗い金色の瞳は、こちらを止めたいと明らかに告げていた。唇も僅かに動いた。残れ。おそらく、その言葉が出かかったのだと思う。けれどヴァルゼインは言わなかった。一度呼吸を整えるように鼻から息を吐き、問い直す。「行くのか」リュシエナは頷いた。「行きます」短い沈黙が落ちた。「なら、俺も行く」それ以上の説得はなかった。断崖へ向かったのは、ヴァルゼイン、リュシエナ、カルネア、そして山に慣れた兵士四人だった。吹雪は前日より幾分弱まっていたものの、山へ入れば風の音が途端に変わった。黒い針葉樹の枝が唸るように揺れ、雪が顔へ叩きつけられる。足元の雪は深い。一歩進むたび膝近くまで沈み、引き抜けば脚へ重い抵抗がかかる。ヴァルゼインは何度も歩調を

  • 月を持たない娘は、黒き森で牙を研ぐ   第20話 弱い者から配る冬

     夜明け前、風が家々を揺さぶった。 黒森から押し寄せた吹雪は、眠りかけていたエルダ村を再び白い闇へ閉じ込めた。雨戸の隙間から細かな雪が吹き込み、集会所の床へ粉のように積もっている。屋根の上では重い雪がずり落ち、そのたびに梁が低く軋んだ。 見張りに出ていた兵が、扉を肩で押し開ける。「街道が埋まりました! 東の獣道も倒木で塞がれています」 外套へ張りついた雪が、暖炉の熱を受けて黒い水となって滴った。「王都へ出した伝令は」 カルネアが問う。「昨夜のうちに谷を抜けたはずです。ですが、救援隊が同じ道を戻れるかは…」 兵は言葉を濁し、背後の白い闇を振り返った。 風の咆哮が答えの代わりとなった。 リュシエナは長卓へ広げた紙の端を、燭台で押さえた。 無事だった穀物。王都から持参した保存食。村の各家庭が隠し持っていた豆と干し根菜。病人へ与えられる蜜と岩塩。 汚染された麦を除けば、村全体で食べられる量は予想より少なかった。「通常通り配れば、十日です」 集会所へ集まった村人たちの間に、冷たい沈黙が落ちる。「吹雪は三日で止むかもしれない」 村長が言った。「止まっても、道を掘り起こす時間が必要です」 リュシエナは窓の向こうへ目を向けた。枝が折れる鋭い音が、風に混じって聞こえる。「救援が到着する日を、食糧が尽きる日より早いと決めることはできません。最低でも十五日。可能なら二十日持たせます」「二十日だと?」 健康な男が声を上げた。「半分に減らせというのか。雪かきへ出る者まで食えなくなれば、道も開かんぞ」「全員を同じようには減らしません」 リュシエナは新しい紙を広げた。「年齢、体格、病状、身体を使う仕事によって必要量が違います。まず一人ずつ確認させてください」 銀嶺で備蓄を管理していた頃、配給表に記されるのは家名と人数だけだった。幼い子も、病で動けない者も、妊娠している女も、一つの口として同じ印をつけられた。足りなければ家の中で分けろと言われ、声の弱い者から椀が軽くなった。 それを繰り返してはならない。 集会所の壁際へ机を置き、村人を一世帯ずつ呼んだ。 名と年齢。狼へ変身できるか。熱や吐き気はあるか。妊娠している者、乳を与えている者、古傷や持病のある者。雪かき、屋根下ろし、見張り、狩猟へ出る予定。 リュシエナが尋ね、村の治療師が身体を確

  • 月を持たない娘は、黒き森で牙を研ぐ   第19話 黒森の村

    第19話 黒森の村 少年の睫毛には、溶けない霜が張りついていた。 カルネアの外套へ包まれても、小さな身体の震えは止まらない。唇は青紫に変わり、胸は浅く速く上下している。雪の中を走り続けた裸足には、細かな裂傷が無数に刻まれていた。 リュシエナは橇から薬草箱を下ろし、少年のそばへ膝をついた。「名前を教えてくれる?」「……ニル」 掠れた声が、風に消えかける。「ニル、手を見せてください。痛いところへ触れる前に言います」 少年はカルネアの胸元へ顔を寄せたまま、指だけを差し出した。爪の間まで入り込んでいた黒い氷は、薬草を温めた布で包むと少しずつ水へ戻った。 黒い色は血でも毒でもない。森の煤が雪と混じったものだった。「村で何があった」 カルネアが声を落として尋ねる。「夜から、風が……道がなくなった。倉が潰れて、屋根が落ちた」 ニルは何度も息を継いだ。「みんな熱い。吐いて、指が痛いって。母さんが、黒狼になって助けを呼べって……でも途中で、足が」「エルダ村か」 少年が頷く。 エルダは、リュシエナが帳簿で不足を見つけた谷沿いの村だった。黒い針葉樹に囲まれ、冬には北風が谷底へ溜まる。王都からの道は一本しかなく、あの吹雪に塞がれれば孤立する。 カルネアが北の空を睨んだ。「斥候。村までの道を見ろ。崩落があれば戻って知らせろ」 二人の兵が狼へ姿を変える。黒い毛並みが雪を払い、たちまち木立の奥へ消えた。「視察は中止します」 リュシエナは橇へ積んだ薬草箱と保存食を見た。「この物資を救援へ回してください」「お前の権限は配分案の作成までだ」 カルネアの指摘に、リュシエナは銅印を握った。革紐越しに、角ばった形が掌へ触れる。「分かっています。ですから、部隊長であるあなたへ要請します。エルダ村を確認し、緊急配分が必要か判断してください」 カルネアの赤褐色の瞳が細くなる。 一瞬の沈黙のあと、彼女は頷いた。「要請を受ける。視察隊は救援隊へ変更。王都へ伝令を出せ。追加の食糧と治療師を求める」 命令が飛ぶと、兵たちが素早く動いた。 ニルには温めた蜂蜜水を少しずつ飲ませ、橇の中央へ寝かせる。カルネアが自分の外套を掛けたまま立ち上がったため、肩へ容赦なく雪が積もった。「寒くありませんか」「この程度で凍えるなら、北部隊の指揮は執れん」 短く答え、カルネ

  • 月を持たない娘は、黒き森で牙を研ぐ   第18話 三十日だけの仕事

     評議室の長卓には、空いた椅子が一つだけあった。 誰かが用意したものではない。 リュシエナは扉の脇に重ねられていた予備の椅子を自分で運び、卓の末席へ置いた。脚が石床を擦る鈍い音に、先に集まっていた評議官たちの視線が一斉に向く。 窓の外は雲が低く、朝だというのに室内は薄暗い。獣脂の蝋燭が幾本も灯され、溶けた蝋と乾いた羊皮紙の匂いが漂っていた。 リュシエナは椅子へ座らず、その背へ手を添えた。 指先には、昨夜の墨がまだ薄く残っている。「発言をお許しください」 長卓の奥に立つヴァルゼインが、短く頷いた。「話せ」 彼は彼女を紹介しなかった。番であるとも、王が保護する客人であるとも告げない。何を求め、何を差し出せるかを、リュシエナ自身の言葉へ委ねていた。「冬季薬糧監査官として、三十日間働くことを申し出ます」 室内の空気が僅かに動いた。 衣擦れ。椅子の軋み。誰かが鼻から短く息を吐く音。 リュシエナは用意した一枚の文書を卓へ置いた。「閲覧を求めるのは、王都と北部村落の食糧、薪、薬草に関する備蓄記録です。各地の不足量を確認し、余剰のある倉庫から再配分する案を作成します。移送の決定権は求めません。軍の人数、配置、武器、兵糧庫に関わる記録にも触れません」「敵国の帳簿を扱った女へ、こちらの倉を開けろと?」 長卓の中ほどで、灰色の髭を蓄えた評議官バルガスが口を開いた。 地下の取調室で捕虜の獣魂を裂くべきだと主張した男だった。今日も細い目には冷たい疑念が浮かんでいる。「どの倉に何が足りないか分かれば、兵が何日動けるかも推測できる。軍事記録へ触れぬと言えば安心するとでも思ったか」「懸念はもっともです」 リュシエナは反論せず、文書の端へ指を置いた。「ですから、軍へ納める前の民生用備蓄に限ります。閲覧中は必ず黒曜の記録官を同席させ、写しの持ち出しもしません。三十日後、作成した資料はすべて返却します」「返したところで、頭の中へ残る」 別の評議官が低く言った。「それは否定できません」 誤魔化せば、かえって疑いが深くなる。「私は数字を覚えます。それを役立てるために、この職を求めています」「銀嶺へ知らせるためではないと、どう証明する」「証明できるのは、これからの行動だけです」 リュシエナの声は静かだった。「最初から信頼していただけるとは考えていま

  • 月を持たない娘は、黒き森で牙を研ぐ   第17話 許さなくていい

     乾ききらない墨が、紙の上で鈍く光っていた。 窓の外では細かな雪が降り続いている。白く霞んだ中庭の向こうで、見回りの兵が歩くたび、革靴の底が凍った石を擦る音がした。部屋には暖炉の火が入っていたが、机へ向かうリュシエナの指先は、いつまでも冷たかった。 父上へ。 そう書いたところで、筆が止まる。 なぜ、幼い私へ毒を飲ませることを許したのですか。 私の獣魂について、どこまで知っていたのですか。 門を閉ざしただけでなく、なぜ番兵に追わせたのですか。 胸の内には幾つもの問いがあった。地下の月祠で見つけた調合記録も、年齢ごとに増やされた月毒の量も、父の顔を思い浮かべれば鋭い欠片となって喉へ集まった。 けれど、筆先から落ちた言葉は違った。『このたびは、私のことで多大なご迷惑をおかけし、申し訳ありません』 そこまで書き、リュシエナは息を止めた。 違う。 謝りたいのではない。 知りたいのだ。なぜ自分の身体が壊され、なぜ命まで奪われかけたのか。父は知らなかったのか。それとも、知りながら毎朝の薬杯を見ていたのか。 紙を脇へ退け、新しい一枚を置く。 雪明かりを受けた紙面は、責めることさえ拒むように白かった。『突然の書状をお許しください。黒曜狼国の皆様へご迷惑をおかけしていることは、すべて私の至らなさが――』 まただ。 筆を置く音が、静かな部屋へ硬く響いた。 首元が締めつけられる。月環はもうない。包帯も薄くなり、傷は少しずつ塞がっている。それでも、息を深く吸おうとすると、銀の輪が残っているような錯覚がした。 二枚目も伏せる。 三枚目には、最初から問いを書こうと決めた。『父上は、私へ月毒が与えられていたことを――』 そこまで進んだ筆先が震え、黒い雫を落とした。滲んだ墨の縁が、ゆっくりと紙の繊維へ広がっていく。 父が知らなかったと答えたら、どうするのか。 ラヴィナ一人の仕業だったと告げられれば、まだ父を信じられるのか。 知っていたと答えたら。 役立たずのお前を家へ置くために必要だった。ミレシアを守るには仕方がなかった。お前一人が耐えれば丸く収まったのだ。 あの低い声でそう言われたなら、自分はまた謝るのではないか。 ご期待に沿えず、申し訳ありませんでした、と。 リュシエナの指が紙を掴んだ。乾かない墨が掌へ移る。三枚目の手紙は小さく潰れ、

Higit pang Kabanata
Galugarin at basahin ang magagandang nobela
Libreng basahin ang magagandang nobela sa GoodNovel app. I-download ang mga librong gusto mo at basahin kahit saan at anumang oras.
Libreng basahin ang mga aklat sa app
I-scan ang code para mabasa sa App
DMCA.com Protection Status