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第2話 誰も追ってこなかった

Author: なつめ
last update publish date: 2026-07-27 08:12:05

 祝宴の太鼓が三度鳴るより早く、追放命令は読み上げられた。

 血の付いた銀首輪《月環》は、まだ大広間の石床に落ちたままだった。

 その傍らへ、月神殿の従僕が白木の書見台を運んでくる。上には、銀嶺狼群《ルーメル》の紋章を刻んだ羊皮紙が置かれていた。広げられた紙は端まで平らで、たった今用意されたものには見えない。黒い封蝋もすでに乾き、狼の横顔が深く鮮明に押されている。

 リュシエナは血の滲む首元を手で押さえながら、ゆっくり顔を上げた。

 月祠長オルディスは彼女を見なかった。乳白色の石を嵌めた杖を傍らへ立て、祝詞を読む時と変わらぬ厳かな声で告げる。

「リュシエナ・フェルディス。汝は新たなルナの地位を脅かし、群れの調和を乱す恐れがある。よって、アルファの名において、今夜限りで銀嶺狼群から追放する」

 広間を満たしていた歓声が、奇妙な静けさへ変わった。

 誰かが驚いて杯を置く。銀器と卓が触れ合う小さな音が、ひどく遠くまで響いた。

 リュシエナは最初、言葉の意味を掴めなかった。月環を外されても、薬草や備蓄を管理する役目くらいは残されると思っていた。

 だが、彼女へ残される隅は、初めからどこにもなかった。

「……追放、ですか」

 掠れた声で尋ねる。

 オルディスの指先が羊皮紙の上を滑った。

「月が天頂へ昇るまでに領地を出よ。その後も境界内に留まった場合は、群れへ敵意を持つ侵入者と見なし、処分する」

 処分。人の命を奪うという意味を、紙の上だけで清潔にした言葉だった。高窓の月が頂へ届くまで、二刻も残されていない。

「せめて、朝まで――」

 言いかけた声を、ローディクが遮った。

「必要ない」

 彼は壇上でミレシアの腰へ手を回したまま、冷ややかにリュシエナを見下ろしていた。

「お前がここにいれば、新しいルナへ余計な噂が立つ。今夜のうちに出ていけ」

 ミレシアが新しい月環へ指を重ねる。

「お姉様がここにいれば、おつらいでしょうし……離れた方が、きっとお互いのためになります」

 健気に庇う声だった。リュシエナは妹の首にある銀輪を見た。四年かけても、自分の居場所にはならなかったものを。

「異議を申し立てることはできますか」

 広間の空気が張り詰めた。父ガルディオの眉間に皺が刻まれ、ラヴィナは膝の上で扇を握り締める。

 オルディスだけは表情を変えない。

「アルファの継承と群れの安寧に関わる緊急命令だ。審理は必要とされぬ」

 リュシエナの目は、再び羊皮紙へ向かった。

 右下のローディクの署名には、十分に乾いた砂の跡が残っている。儀式の最中に書かれた文書ではない。

 拒絶の結果として追放が決まったのではなかった。

 彼女が何を言おうと、月環を外された直後にこの紙が開かれることは、前から決められていたのだ。

「そうですか」

 それ以上は言わなかった。言葉を尽くしても、聞く者はいない。

 立ち上がろうとすると、力の入らない膝が軋んだ。石床へ手をつき、どうにか身体を起こす。灰色の礼装の裾へ小さな血の滴が落ちた。

 誰も手を貸さなかった。

 リュシエナは床に残された古い月環へ目を向けた。

 手を伸ばすより先に、月神殿の従僕が火箸で銀輪を挟み、黒い布を張った箱へ収めた。

 蓋が閉じる寸前、月環の内側に浮いた黒い染みが見えた。

 次の瞬間には隠される。

「出口まで送れ」

 ローディクが命じた。

 広間の両側から二人の番兵が進み出る。腰の剣が革の鞘へ触れ、乾いた音を立てた。

 リュシエナが扉へ向かうと、楽師たちは目を伏せた。客たちは触れられることを避けるように道を空ける。

 背後では、ローディクが杯を掲げていた。

「皆、騒がせた。祝いを続けてくれ」

 ためらいがちな拍手が起こり、扉が閉じきる前に弦楽器が鳴った。

 彼女の追放など、宴の短い中断にすぎなかった。

 外廊下の冷気が、むき出しの首の傷へ刺さる。リュシエナは片手で襟を寄せた。番兵たちは歩調を緩めない。磨かれた長靴の足音が、彼女の薄い靴音を挟んで規則正しく響く。

 城館の外へ出ると、雪の匂いがした。冷たい空気は痛いほど澄み、それでも広間にいるより息がしやすかった。

 フェルディス家の屋敷までは、歩いて四半刻ほどだった。

 いつもなら家の馬車が待つ場所に、今夜は何もない。番兵の一人が顎で道を示す。

「行け」

「家へ戻ることは許されているのですか」

「月が上がりきるまでだ。荷をまとめたら、北門へ来い」

 なぜ北門なのかと尋ねかけ、やめた。

 南門は街道へ通じている。冬でも人の往来があり、夜を越せる宿場もある。北には森と険しい山道しかない。そのさらに先は、長く敵対してきた黒曜狼国《ヴァルグラッド》の領域だった。

 番兵は屋敷まで同行しなかった。逃げる場所などないと知っているのだ。

 祝祭の明かりが連なる通りを、リュシエナはひとりで歩いた。酒場から笑い声が漏れ、子どもたちが新たなアルファを讃える歌を歌っている。誰も彼女を追放者だとは知らない。

 フェルディス家の門は開いていた。

 玄関前の荷車には、薬草の記録や亡き母の本を収めた木箱が積まれている。屋敷の廊下には、慌ただしい足音が行き交っていた。

 リュシエナが階段を上がると、二階の自室は扉を大きく開け放たれていた。

 部屋の中は、半分ほど空になっている。

 寝台の覆いは剥がされ、衣装棚は開いたままだった。衣服はミレシアの部屋へ運ぶものと、使用人へ下げ渡すものに分けられている。本棚には日焼け跡だけが残り、母の刺繍も消えていた。

「お嬢様」

 年長の侍女が、畳みかけていた衣を胸へ抱いたまま固まる。

 別の侍女が素早く目を向ける。もう彼女をそう呼んではならないのだろう。年長の侍女は視線を床へ落とした。

「ラヴィナ様のご命令です。こちらの品は、すべてミレシア様がお使いになります」

「すべてですか」

「はい」

 華やかな衣も飾りも要らない。ただ、今着ている礼装では、丘を一つ越える前に凍えてしまう。

「旅に必要な外套だけ、いただけますか」

 声を荒らげたわけではない。それでも侍女は、責められたように肩を縮めた。

「奥様に叱られますので」

「古い物で構いません」

「申し訳ございません」

 謝る言葉とは裏腹に、その手はリュシエナの冬着を抱え直している。

 机の引き出しからは、薬草の配合や冬の備蓄量を記した帳面まで消えていた。

「私の記録は、どこへ?」

「財務長様がお預かりになりました」

 リュシエナは空の引き出しへ触れた。後ろで侍女たちが息を潜めている。けれど涙は出なかった。ここまで用意されていたのなら、今さら何に驚けばよいのかも分からない。

「もう結構です」

 そう告げて部屋を出る。

 廊下の角を曲がったところで、細い腕に袖を引かれた。

「リュシエナ様」

 エナラだった。

 栗色の髪を乱し、目を赤くしている。周囲を確かめてリュシエナを物置へ引き入れると、震える手で厚手の灰色の外套を差し出した。裾は擦れていたが、内側の毛皮はまだ柔らかい。

「お母様の……」

「奥の衣装箱に隠されていました。これはミレシア様には似合わないから、処分するようにと言われて」

 エナラが外套を肩へ掛ける。古い乾燥花の匂いは、雪の日に抱き寄せられた母の胸元と同じだった。リュシエナは頬を伝った一滴を、すぐに指で拭う。

「ありがとう」

「これも」

 エナラは砕き根や止血用の白葉を入れた小さな薬草袋も押しつけた。

「食べ物は持ち出せませんでした。厨房も見張られていて……ごめんなさい」

「謝らないで。十分です」

「北へは行かないでください」

 エナラの指が外套の袖を強く掴む。

「黒曜狼国の森があります。黒狼は、境界へ入った者を生かして帰さないと聞きます。西の山道なら、遠回りでも中立領へ――」

「南の門は、もう閉じられているのでしょう?」

 エナラの声が止まった。

 暗がりの中で、瞳が揺れる。

「西の山道にも、番兵が増やされている。違いますか」

 返事はなかった。リュシエナは、掴まれた袖へ手を重ねる。

「今朝、奥様が北門の番兵へ命じているのを聞いただけです。何をなさるのかまでは、本当に」

 今朝。

 拒絶の宣言よりも前だった。

 胸に残っていた最後の疑いが形を失う。答えを知らないまま、エナラの手をそっと外した。

 廊下の向こうで誰かがエナラの名を呼ぶ。彼女は肩を跳ねさせ、涙を拭った。

 リュシエナは外套の前を合わせる。

「私を見送ってはいけないわ。ここに戻って」

「お名前を呼ぶことまで、奪わせません」

 エナラは泣きながら、まっすぐ彼女を見た。

「リュシエナ様。どうか、生きてください」

 その言葉だけを受け取り、物置を出た。

 階段を下りると、玄関広間に父が立っていた。

 ガルディオは黒い外套へ着替え、二人の家令と北門の番兵を従えている。

 別れを惜しむためではない。

 娘が確実に去るのを見届けるためだった。

「その外套は」

 父の目が母の遺品へ留まる。

「処分される物だと聞きました」

 ガルディオは何か言いかけたが、取り上げろとは命じなかった。亡き妻の刺繍から視線を逸らし、冷えた声を落とす。

「門を出た後、フェルディス家の名を二度と使うな」

 リュシエナは黙って父を見た。

「お前がどこで何をしようと勝手だ。だが追放先で問題を起こし、家名を口にすれば、ミレシアの立場へ傷がつく。あの子は今夜からルナとなるのだ」

「私が何をしたのですか」

「存在しているだけで、新しいルナと比較する者が出る。お前を哀れむ者がミレシアを責めるかもしれない。それが群れの亀裂になる」

「だから、私は消えるべきだと」

「お前一人が耐えれば、すべて丸く収まる。昔からそうしてきただろう」

 その言葉が、リュシエナの二十年を言い表していた。妹が泣けば譲り、家の評判に関わると言われれば黙った。耐え続ければ、いつか家族として認められると思っていた。

 けれど彼らが覚えたのは感謝ではない。

 リュシエナは耐えるものだという習慣だけだった。

「……申し訳ありません」

 いつもの言葉が、舌の上まで出かかった。

 それを静かに呑み込む。

 父の目を見た。

 薬草袋を握る指が震えている。それでも、目は逸らさなかった。

「では、今日まで育てていただいた恩も、今夜でお返しします」

 ガルディオの眉が動く。

「何だと」

「私が耐えることで返してきたものが、まだ残っていたのなら、今夜ですべてお返しします」

 声は穏やかだった。

 初めて父へ逆らったという実感はなかった。ただ、もう謝る理由が見つからなかった。

 リュシエナは一礼し、父の横を通り過ぎる。

 ガルディオの指が動いたが、その手は外套の脇で拳を作っただけだった。

「恩知らずめ」

 背後から落ちた言葉にも、足を止めなかった。

 玄関を出る。

 引き止める声は、最後まで聞こえなかった。

 北門の前には四人の番兵が待っていた。

 城壁の松明は吹雪に煽られ、炎が細く横へ流れている。鉄鋲を打った門の向こうには、月明かりを吸い込む雪原が広がっていた。

 番兵の一人が手を差し出す。

「家門の品を置け」

 リュシエナが差し出した財布は、中の銀貨ごと奪われた。

 腰の短剣も外された。刃こぼれした古い品で、薬草の根を切るために使っていたものだった。

 続いて、礼装の胸へ縫いつけられた家門の徽章まで引きちぎられる。留め針が布を裂き、胸元に長い傷を残した。

 番兵は薬草袋の中身を確かめ、粗末な草だけだと鼻を鳴らして返した。

 門脇の記録簿では、リュシエナの名の上へ赤い線が引かれた。二十年間の証が、一本の線で消される。

「出ろ」

 門が軋みながら開く。

 氷の粒を含んだ風が吹き込み、外套の裾を激しく打った。

 足元には、祝宴のために選んだ薄い礼装靴しかなかった。

 それでもリュシエナは、境界を示す石を越えた。

 背後で鎖が引かれる音がする。

 重い門は、彼女が振り返るより早く閉ざされた。

 鉄と木が噛み合う轟音が、夜の雪原へ響き渡る。

 直後、城壁の向こうから音楽が聞こえた。

 笛と太鼓、いくつもの笑い声。ローディクとミレシアの新たな門出を祝う旋律だった。

 リュシエナは母の外套を胸元へ寄せ、歩き始めた。

 薄い靴はたちまち雪を吸い、冷たさが爪先へ染み込む。丘へ続く道には自分の足跡しかない。風が強まるたび、その跡さえ輪郭を失っていく。

 膝が震えても、立ち止まらなかった。

 丘の頂へ着いた時、月はほとんど天頂にあった。

 眼下に銀嶺の集落が見える。

 家々の窓は金色に灯り、中央の城館からは白銀の旗が翻っていた。二十年間、世界のすべてだと思っていた場所だった。

 リュシエナは一度だけ振り返った。

 門から丘までは、急げば四半刻もかからない。

 誰かが、考え直すかもしれない。

 父が追放はやりすぎだったと気づくかもしれない。ローディクが四年間のうちの一夜くらいを思い出すかもしれない。薬を届けた兵士や、配給を守った老人や、熱を下げた子どもの家族が、せめてこの吹雪の中へ毛布を持ってくるかもしれない。

 エナラではなく。

 彼女だけは、追ってくれば罰を受ける。

 それ以外の、誰かが。

 リュシエナは母の外套の中で両手を握り、白い道を見つめ続けた。

 風が髪をさらい、首の傷へ雪を吹きつける。

 祝宴の音楽が一曲終わった。

 次の曲が始まる。

 門は開かない。

 雪の道に、人影は現れなかった。

 やがてリュシエナは前を向いた。

 南へ続く道には、番兵の松明が列を作っている。西の山道にも狼の影が見えた。

 残されているのは、北だけだった。

 黒い森へ続く、誰も通らない道。

 最初の一歩を踏み出した時、閉ざされた門の内側から狼の遠吠えが響いた。

 一頭ではない。

 低い声が一つ。それへ重なるように、左右から二つ。

 リュシエナの足が止まる。

 子どもの頃から、何度も聞いた合図だった。

 祝福を捧げる遠吠えではない。

 獲物を追う時の合図だった。

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